4 蔵骨器 2
第2節 004号墓
(1)遺構(第11図〜第12図、図版9〜図版13)
004号墓は調査区丘陵の東側斜面に立地し、003号墓から南側75mの箇所に位置する。牧港石灰岩を基 盤とする丘陵斜面に横穴を掘削して墓室を構築した平葺墓である。墓庭は斜面をL字状に掘り下げ、正面 は屋根側に向かって少し開く傾斜となる。屋根の平面形状は約50㎝大の切石を一列並べて方形とする。切 石の上面は比較的丁寧な面を持つが側面の加工は粗い。石列内の中央は一部岩盤が露出するものの黄白褐 色混礫土により充鎮されていたことが窺えた。石敷き等は見られず、表面は造成土による仕上げが施され たことが考えられる。正面屋根側の縁は横長の長方形の切石を横一列に並べ、両端は縦長の切石を配置す る。亀甲墓でいう眉石にあたる横長の切石は屋根中央付近にある樹木の根で一部崩落しているが、10個の 切石で構成されていたことが窺える。墓正面は岩盤削り出しによる自然面が顕著に見られるが、正面向 かって右側の屋根側切石下部は岩盤の窪みがあったと思われ、そこには丁寧な相方積みによる面仕上げが 施されている。使用される切石は丘陵と同質の牧港石灰岩であるが、一部サンゴ石灰岩の切石も確認され た。眉石直下の切石の列は大きさが異なる切石で布積みのような積まれ方がなされており相方積み部分と は少々様相が異なる。墓口は幅約0.9mで岩盤を掘り込む。向かって右側に幅約0.2m、高さ約1.1m、奥行き 0.28mの切石が一つ嵌め込まれており、墓口の現状の寸法では幅約0.7m、高さ約1.1m、奥行き(羨道)は約 1mを測る。調査前墓口は閉塞されていたが、閉塞石で使用されていた石は大小様々な大きさで面を持た ないものが多く、積み方も雑であった。墓口手前には板状の切石が設置され、表土を掘り下げると墓口前方 に面を持たない一列の切石の列が検出された。向かって左側から楕円状に列が緩く曲がり、墓口前方で石 列は折れ曲がるため墓口との間が広がる。そして向かって右側に列が伸びていくが、途中で途切れている。 また、墓口前方には幅0.7m、奥行き0.4mの切石が見られ、石列はサンミデーとして、切石は香炉の役割の ものだと考えられた。これらの閉塞石と一列の石列および板状の香炉石は後世に構築されたものと見られ た。雑な閉塞石を除去すると、羨道の墓室側まで面を持つ切石が3列2段で積まれていた。これらの切石が 本墓を閉じた当時の閉塞石と考えられ、本来は墓口上部まで積まれていたと推測した。しかし、何らかの理 由により墓口が開いた時期があると考えられた。墓室に残る蔵骨器は残存状況がよく、原位置の復元も可 能な資料が多数見られたが、サンミデーで重なるように置かれた蔵骨器や横倒しの蔵骨器が確認されたこ とから、戦時中の避難等で開口したことが推測された。その後閉塞され、調査開始時に目にした閉塞石は戦 後のものだと考えらえる。当時の閉塞石を除去すると、墓口手前に幅約1.1m、奥行き約0.6mの切石が露出 し、造墓当時のサンミデーもしくは香炉のような線香等を置くための切石だと考えられた。
閉塞石がかかる位置には石列が見られるが、基本的に岩盤を掘り込んで構築されており、墓室は羨道か ら0.13m下がった位置に構築する。墓室の平面形は奥壁と左右側壁を凸状に成形する出窓状で、天井およ び床面や壁面は岩盤掘り込みにより構築される。墓室の奥行き約3.1m、幅約4.8mを測り、棚を含めた面積 は約12.7㎡である。墓室の高さは約1.8mで天井は丁寧に造られる。奥棚は奥行き約3.1mを測り、シルヒラ シ基底面からの高さ約0.79mである。右棚の奥行きは約0.75mで、高さは約0.73m。左棚の奥行きは約 0.83m、高さ約0.72mである。奥棚の縁側で岩盤の窪み部分に切石を嵌めて面を整えた箇所が一部あるが、 基本的には掘り込みにより構築し、棚面の岩盤起因による凹凸を牧港石灰岩の石粉を敷き詰めて平坦とす る。シルヒラシの平面形は幅約3.2m、奥行き約2.1mの横長の長方形をなしており、床面は岩盤起因による 凹凸を棚と同じように石粉を充鎮して仕上げる。墓室の棚から21点、シルヒラシから24点の計45点(蓋と
身がセットのものは1点として数えた数値。また身のみ、蓋のみも含む。第8表参照)の蔵骨器が検出され た。3つの棚に安置されていた蔵骨器は原位置を保っていることが窺えるが、シルヒラシに安置されてい た一部の蔵骨器は横倒しのものや蔵骨器の上部に重なって検出されたものも見られた。
墓庭は牧港石灰岩の丘陵を削って平場を構築する。墓門付近の庭は岩盤の窪みが見られ、そのような窪 みには屋根の造成と同様に黄白褐色混礫土を充鎮して平場を構築している状況が窺えた。墓庭の寸法は墓 門から墓正面まで奥行き約8.2m、幅約4.4m、面積39.5㎡である。左庭囲いは正面との角の部分で墓庭基底 部より約2.6m立ち上がる。上端はなだらかに東に向かって傾斜し、コーナーから1.8mの部分まで岩盤の 削り出しによる自然面が顕著に見られるが、そこから墓門まで粗い相方積みで構築される。墓門は幅約1.1 m、奥行き約1.75mで重厚な造りとなり、比較的大ぶりな切石による相方積みで仕上げる。墓門は墓口の正 面には無く、墓口中央から南側1.2mの位置に門の中心がくるよう構築される。
墓室には前述したように多くの蔵骨器が安置されていた。奥棚および右棚は原位置を保っていると見ら れ、どの蔵骨器も正面がシルヒラシを向いていた。左棚も一部蔵骨器が傾いたもの(蔵骨器20)があるもの の、他は正面が全てシルヒラシの方を向いていたため原位置を保っていると考えられる。シルヒラシでは 向かって左側(右棚の前方)は蔵骨器22、23、24が壁側を向いているものの25〜28の蔵骨器はシルヒラシ を向く。29は転用蔵骨器のため、正面の位置は不明。向かって右側(左棚の前方)は蔵骨器34、38、41、42の マドがシルヒラシを向く状況から原位置だと見られるが、蔵骨器43、44はシルヒラシに安置された蔵骨器
(37、38)の屋根と左棚の前列の蔵骨器との間に横倒しで置かれていた。他にも横倒しで検出された蔵骨器
(30、31、33、36)やマドが壁の方向を向く蔵骨器(37、40)があり、これらは原位置を保っているとは言い難 い。
本墓の明確な造墓年代は明らかではないが、
奥棚中央に安置されている蔵骨器8に年代が分 かる銘書は見られないもののその器形から安 里分類のⅠ式に相当する1660〜1690年と見 られる資料が出土したこと、本墓内で最も古い 銘書が左棚検出の蔵骨器15で康煕56(1717)
年が見られたことなどから、使用時期の始まり が17世紀半ば頃から18世紀初め頃とみられ、
その後は、検出されたマンガン釉甕形が安里編 年のⅡ期(1770〜1800年代)やⅢ期(1810〜
1850年代)で、それ以降の形式が確認されな かったことから、1850年代までが最も機能し ていたと見られる。一番新しい銘書きは光緒2 年(1876)のものだが、ボージャー形蓋(安里分 類Ⅶ式1750年〜1820年)の外面に墨書された 銘書を確認した。形式と銘書の時代に最低でも 約60年の差があるが、光緒2年以降に再び墓が 開けられたことが窺える。
(2)遺物(第14図〜第28図、図版 42〜図版56)
004号墓からは蔵骨器、沖縄産 陶器、金属製品、古銭、現代の本土 産磁器が出土している。特に蔵骨 器は完形資料が多く検出された ことは特筆される。種類ではボー ジャー形をはじめ、石製家形や赤 焼御殿形、マンガン釉甕形、沖縄 産無釉陶器の転用品が見られた。 内訳ではボージャー形は28点、石 製家形は3点、赤焼御殿形は2点、 マンガン釉甕形は7点、転用蔵骨 器が2点の計42点である(身のみ の内訳)。
奥棚からは10点の蔵骨器が安 置されていた。内訳はボージャー 形が7点、石製家形が2点、赤焼 御殿型が1点である。蔵骨器は2 列で安置されており(第13図)、前 列中央の蔵骨器8(第15図30、 31)が本墓で最も古いボージャー 形である。蓋はつまみが宝珠形で 蓋裏の中心部は有孔である。径 7.4㎝のつまみ台が見られ、体部 には沈線で牡丹唐草文が施され る 。安 里 分 類 の Ⅰ 式( 1 6 6 0 〜 1690)の資料である。身はマドが 瓦葺を表現した寄棟形が貼り付 けられており、その両脇には沈線 で蓮華文が描かれている。安里分 類のⅠ式(1660〜1690)の資料で ある。銘書(身)には「粟國掟…/ たら■/子/四月八日」とある。 銘書から粟國家の蔵骨器である ことが分かる。
前列の蔵骨器6(第14図26、 27)もボージャー形で、蓋はつま
みが饅頭形で蓋裏の中心部は有孔である。径8.6㎝のつまみ台が見られ、体部に櫛描き波状文が施される。 安里分類のⅡa式(1680〜1750)の資料である。身は頸部沈線が2本、胴部は無文である。マドは平葺形が 貼り付けられており、安里分類のⅤ式(1720〜1780)の資料となる。両者の絞り込みから1720〜1750年の 資料と考えられる。銘書は蓋と身と両方で確認された。蓋には外面及び内面に墨書されていた。外面は残存 状態が悪く「午十一月十八日/…/粟國■…/女房…/…」と判読不能な文字が多いが、内面は「午十一月 十八日死去/■粟國む戸西原/女房真こせい」とあり、■粟國む戸西原の「女房真こせい」が被葬者である ことが分かる。マド枠下方で見られた銘書は「粟國之む戸西原/女房真こせい」とある。蓋で書かれていた 死去月日が身では書かれていない。銘書の内容より粟國に関係する西原姓が確認できる。
前列の蔵骨器9(第17図38、39)はサンゴ石製家形蔵骨器で、同墓で最も大きな石製家形である。屋根は 入母屋形で軒に垂木の意匠が正面及び両側面に施されているが、背面には垂木の表現は見られない。四面 とも桁の両端の幅は厚い。身は正面中央に方形のマドが3箇所見られ、正面および両側面には左右に線彫 りによる枠が施される。屋根及び身の器形から大堀分類の2H類(入母屋造千鳥破風6式)と見られ、17世 紀後葉から18世紀が主体となる資料である。身正面には判読不能な文字が多いが「粟■掟親雲上/女房/
■■■之■■■/■■…■■女子/まか戸/・・・■七日」と書かれており、被葬者は「粟國掟親雲上女房」と その女子の「まか戸」ということが分かる。
前列右端の蔵骨器10(第18図42、第19図43)は赤焼御殿形である。上江洲編年の1690〜1780年の資料で、 蓋は寄棟形である。大棟に一対の鯱が乗り、正面及び背面の鯱の下方には獅子頭を2体ずつ貼り付けてい る。四面ともに朱、青、黒で彩色され、正面は蓮華文、両側面および背面は雲文が描かれている。身はマドが 唐破風形の貼り付けで1方2方の3箇所の掘り込みがある。マドの両脇には貼り付けの法師像がみられ、 両側面にも蓮華に乗った法師像が1体ずつ貼り付けられる。正面のマドの下方に蓮華文を彩色で描き、左 右および下方を鋸歯状の文様で連続して縁取られている。背面には大きな蓮華文および草文を彩色で描い ている。全体的に白化粧を施してから蓮華文等の彩色がなされていた。丁寧なナデ調整を行って成形され ている。内面裏側に銘書が確認できた。「山戸比嘉/同人/女房/■■■ノ/■真戸/仁牛比嘉/未六月初 三日入/〆四人申候」と比嘉姓が見られ、被葬者は「山戸比嘉」とその「女房」、「■真戸」、「仁牛比嘉」の四人 だということが分かる。
後列左端の蔵骨器1(第16図32、33)はボージャー形で、蓋はつまみが饅頭形で蓋裏の中心部は有孔とな る。径7.9㎝のつまみ台が見られ、体部に櫛描波状文が描かれることから、安里分類のⅡa式(1680〜1750) となる。身はマドの右側に蓮華文を沈線で描かれており、安里分類のⅡc式(1680〜1740)の資料となる。 両者の絞り込みから1680〜1740年の製作年代が考えられる。蓋の外面に銘書が墨書で「亥ノ年正月十/ 粟國西原築登之/母親」とある。粟國と西原の関係性がこの銘書からも確認できる。
後列右端の蔵骨器4(第17図40、41)はボージャー形で、蓋はつまみが扁平形で蓋裏の中心部は無孔であ る。つまみ台も見られないことから安里分類のⅤb式(1740〜1770)に相当する。身は胴部が無文で頸部沈 線が3本、マドは平葺形が貼り付けられⅣ式(1720〜1820)の資料とみられる。両者を絞り込むと1740〜 1770年とみられるものである。銘書(蓋)に「山戸外間/亥八月弐日新くつ仕/同人女房/但両人入/壬亥 八月八日」とあり、身の胴部には「申/八月十一日/■ら外間/山戸外間/両人入/同人/女房」と墨書さ れる。蓋と身の銘書の内容が若干異なっている。身の銘書の「■ら外間」の筆跡と「山戸外間」「同人女房」の 筆跡が異なる様相から、後者の二人の被葬者は後の追記と考えられる。また、同蔵骨器は内より多くの副葬 品が検出されたことは特筆される。第30図104青銅製の簪(ジーファー)、第30図107青銅製の指輪、第30図
111鉄製の小刀と様々な金属製品が検出された。指輪は図化した以外にも3点検出されており、計4点の 指輪が出土した。それら以外には特に古銭が注目され、23枚の寛永通宝と1枚の紹聖元寶の合計24枚の古 銭が検出された。寛永通宝は古寛永や新寛永と2種類のものが見られた。
これらのことから、奥棚の使用時期は安置される蔵骨器の形式より17世紀終わり頃から使われ始め、18 世紀終わり頃まで使用されていたことが窺える。また、後列に前列のものより新しい形式の蔵骨器が安置 されていたことから、並び替えの可能性が考えられる。
右棚は3点の蔵骨器が安置されていた。内訳はボージャー形の3点である。左端の蔵骨器11(第20図44、
45)の蓋はつまみが宝珠形で蓋裏の中心部は有孔である。径7.8㎝のつまみ台が見られ、体部は無文である ことから、安里分類のⅢa式(1710〜1740)の資料である。身は頸部沈線が2本、平葺形のマドが貼り付け られ、マドの下方には草文のような沈線が見られるが一部分のみであることから胴部全体に文様があった かは判然としない。そのため安里分類のⅡc式(1680〜1740)またはⅢc式(1700〜1800)と見られ、両者の 形式から1710〜1740年の資料と想定したい。蓋内面に銘書が「山戸西原にや/子年正月十六日母親様/
…戸」と見られ、西原姓が確認できる。マド枠上方に「十三」のカマ印が見られる。
中央に安置される蔵骨器12(第20図48、49)は、蓋はつまみが宝珠形で蓋裏の中心部は有孔となる。つま み台が見られず体部無文であることから、安里分類のⅢb式(1710〜1740)の資料となる。身は頸部沈線が 2本、胴部無文で、平葺形のマドが貼り付けられる。安里分類のⅢa式(1700〜1800)の資料となる。両者の 絞り込みから1710〜1740年の資料と考えられる。同蔵骨器は銘書が蓋と身の両方に墨書された資料とし ても好資料である。銘書(蓋)は内面に「乙卯七月六日洗骨/仕候/比嘉掟親雲上」と書かれ、身では「雍正拾 壱年/比嘉掟親雲上/乙卯七月六日洗骨仕候」とある。雍正11年(1733)は癸丑で、乙卯は雍正13年(1735)
である。年号または干支を書き違えたと見られるが、干支は蓋身とも乙卯であることから、雍正13年の可 能性が高いと考えられる。銘書から比嘉姓が確認できる。
右端の蔵骨器13(第20図46、47)の蓋は径6.7㎝のつまみ台のみでつまみは見られないことから、安里分 類のⅥ式(1760〜1790)の資料である。身は頸部沈線3本で、胴部は無文、平葺形のマドが貼り付けられる。
安里分類のⅣ式(1720〜1820)の資料となり、両者の絞り込みは1760〜1790年となる。銘書は見られな かった。
これらの安置された3点の蔵骨器から、右棚の使用時期は18世紀初め頃から18世紀終わり頃と見られ、
西原姓と比嘉姓の関係が示唆される。
左棚は8点の蔵骨器が安置されており、内訳ではボージャー形が6点、サンゴ石製家形厨子が1点、沖縄 産無釉陶器の転用蔵骨器が1点である。奥棚と同様に2列で安置される。
後列左端の蔵骨器15(第22図56、57)はボージャー形で、蓋はつまみが宝珠形で蓋裏の中心部は有孔と なる。径7.8㎝のつまみ台が見られ、体部が無文でることから、安里分類のⅢa式(1710〜1740)の資料であ る。身は口縁部が内傾し、頸部沈線が3本見られる。マド左側の胴部に浅い線彫りで草文のような文様を描 く。平葺形のマドが貼り付けられ、安里分類のⅡa式(1680〜1740年)の資料である。両者の絞り込みから 1710〜1740年と想定される。同蔵骨器は本墓で最も古い年号の銘書が確認された。蓋の外面および内面 に墨書されており、外面の銘書は大部分が薄れているが「…康煕五■…」の文字が読め、内面には「あくに之
/三らにし原男子/山戸西原/康煕五十/六年丙酉/六月初八日」とあり、康煕56年(1717)の年号が確認 できた。身はマド下方に「酉六月八日/あくに三ら西原/男子山戸」とある。銘書の内容から被葬者はあく に之三ら西原の男子で「山戸西原」であることが分かる。
後列中央の蔵骨器16(第22図59、60)もボージャー形で蓋はつまみが饅頭形で蓋裏の中心は有孔である。
径7.0㎝のつまみ台が見られ体部が無文であることから、安里分類のⅢa式(1710〜1740)の資料である。
身は頸部沈線が2本、胴部は無文で平葺形のマドが貼り付けられる。安里分類のⅢa式(1700〜1800)の資 料である。両者の絞り込みから1710〜1740年と想定される。蓋内面と身のマド下方に銘書が確認できた。
蓋は「雍正七年己酉/十一月三十日死去/三ら西原」とあり、身にも同様の銘書が墨書される。銘書の内容 から被葬者は「三ら西原」で雍正7年(1729)に死去したことが分かった。
後列の蔵骨器17(第23図61、62)もボージャー形で蓋はつまみが宝珠形で蓋裏の中心は有孔である。径 7.2㎝のつまみ台下方に雑な波状沈線文が施される。安里分類のⅡa式(1680〜1750)と考えられる資料で ある。身は頸部沈線が2本、胴部は無文で、平葺形のマドが貼り付けられている。マド上方に「二」とカマ印 が見られた。安里分類のⅢa式(1700〜1800)の資料である。両者の形式から1700〜1750年と想定される。
銘書が蓋の内外面および身の胴部で確認できた。蓋の外面には「亥十二月一日/粟國■親雲上/男子三ら
/西原」「丑七月七日/うし比嘉」「丑八月十八日/三ら西原/女子かま戸」が読め、内面には「亥十二月一日
/粟國掟親雲上/男子三らにし原」が確認できた。また、身のマド下方には「■煕六十年■丑七月七日/…
■/うし比嘉/■子かま戸」と被葬者が3名並列される。蓋内面の銘書から、同蔵骨器には先に粟國掟親雲 上の男子で「三ら西原」が納められ、次に「うし比嘉」が納められている。その時に身の胴部にも銘書が書か れたと考えられる。その後、三ら西原の女子でかま戸が亡くなったため、同蔵骨器に納められ、銘書の追記 があったと見られる。康煕60年(1721)はうし比嘉の死去年または洗骨年と想定され、粟國掟親雲上男子三 ら西原はそれ以前の死去と考えられる。本蔵骨器から西原姓と比嘉姓が確認できた。奥棚前列の蔵骨器9の 被葬者の「粟國掟親雲上」との関係性が考えられる。
後列右端の蔵骨器21(第図63、64)はサンゴ石製家形蔵骨器で屋根は入母屋形である。正面及び両側面の 軒に垂木が表現されるが、背面には見られない。身は正面中央に方形のマドが2箇所見られ、正面及び両側 面には左右に線彫りの枠が施される。脚部は方形となる。屋根および身の器形から大堀分類の2H類(入母 屋造千鳥破風6式)と見られ、17世紀後葉から18世紀が主体となる資料である。身の正面には銘書が「正月 一日にし■■/■…■■[女カ]子/康煕六十年辛丑七月七日/大しゆ/巳十月■九日にし原■■子/宮里 にや」と判読できる。康煕六十年辛丑七月七日は蔵骨器17と同年の年号である。
前列左端の蔵骨器18(第21図50、51)はボージャー形で、蓋はつまみが扁平形で蓋裏の中心部は無孔で ある。つまみ台は見られず体部は無文であることから、安里分類のⅤb式(1740〜1770)の資料と見られる。
身は頸部沈線が2本、胴部は無文で、平葺形のマドが貼り付けられる。マド枠の上方には「三」のカマ印が見 られる。安里分類のⅤ式(1720〜1780)の資料である。両者の形式から1740〜1770年と想定できる。銘書 が蓋の内面および身の胴部で確認できた。蓋に「戌八月朔日去/三ら西原男子/うし西原」、身に「戌八月朔 日去/三ら西原男子/■■うし西原/未ノ七月七日」と確認でき、三ら西原の男子の「うし西原」が、戌八月 一日に死去したことが分かる。
前列中央の蔵骨器19(第21図54、55)はボージャー形で蓋はつまみ台が見られず、つまみは饅頭形で蓋 裏の中心部は無孔である。つまみ台は見られないが、体部上面を平坦に仕上げている。文様は見られず、安 里分類のⅤb式(1740〜1770)の資料と見られる。身は口縁が内傾し、頸部沈線が2本数える。胴部は無文 で平葺形のマドが貼り付けられる。その上方に「四」のカマ印が見られた。安里分類のⅢa式(1700〜1800)
の資料である。両者の形式から1740〜1770年と考えられる。銘書が蓋の外面と身の胴部で確認できた。蓋 に「前仲間掟/未年九月廿/五日」とあり、身に「あくに西原仁屋男子/前仲間掟/未年九月廿五日」とある。
あくに西原仁屋の男子で仲間掟の役職についていた人物がいたことがわかる。
前列中央の蔵骨器20(第21図52、53)はボージャー形で、蓋はつまみやつまみ台が見られない笠形であ る。安里分類のⅦ式(1750〜1820)の資料となる。身は口縁部が直口し、頸部沈線が3本を数える。胴部は 無文で平葺形のマドが貼り付けられる。マド枠の右側にカマ印が見られる。安里分類のⅣ式(1720〜
1820)の資料で、両者の絞り込みから1750〜1820年と考えられる。本蔵骨器の銘書は蓋の内面で確認でき た。「外間筑登之/妻/酉六月七日」とある。外間姓が確認でき、外間姓は奥棚後列の蔵骨器4でも確認され ている。
後列左端の蔵骨器15と壁との間に蔵骨器14(第22図58)が安置されていた。沖縄産無釉陶器を転用した 蔵骨器で蓋は確認されていない。口縁部から頸部にかけて打割され、現存の器高29.3㎝、胴径21.4㎝を計る。
そのサイズから成人用ではなく、幼児等が考えられる。蔵骨器15の被葬者「あくに之三ら西原の男子山戸 西原」との関係が示唆される。
左棚に安置される蔵骨器は転用蔵骨器を除いて全ての厨子に銘書が確認できたことが特徴としてあげ られる。本墓において最も古い年号である康煕56年(1717)が蔵骨器15で確認できた。また蔵骨器17およ び21では康煕60年(1721)、蔵骨器16では雍正7年(1729)が確認できたことから、後列は18世紀初め頃に 使用されたことが窺える。前列は蔵骨器の器形から18世紀半ばからの使用が考えられる。
シルヒラシではボージャー形の蓋と身のセットが9点、マンガン釉甕形のセットが6点、赤焼御殿形の セットが1点、転用蔵骨器のセットが1点の蓋と身のセット関係が分かるものの他に、ボージャー形の蓋 が1点、ボージャー形の身が3点、マンガン釉甕形の蓋が2点、マンガン釉甕形の身が1点の単体で検出さ れた蔵骨器に分かれる。身のみを数えると21点の検出があった。検出された蔵骨器は、右棚の前方では2 列で配置されていた状況が窺えるが、左棚の前方は横倒しになった蔵骨器31の上に蔵骨器33が置かれて いたこと、蔵骨器43や44のように他の蔵骨器の上に横倒しで置かれていた状況など上下で重なっていた ものが多く見られたことから、ある時期に墓室内で原位置から移動せざるを得ない事由が発生したと推測 する。床を精査すると缶や小さな鉄片が出土したことから、戦時中に墓が開けられ、空間確保を目的に一部 の蔵骨器の移動が行われたと考えられた。
右棚壁側の蔵骨器23(第24図65、66)はマンガン釉甕形で屋門は壁を向いた状態で検出された。蓋のつ まみは宝珠形で鍔の縁が上方に反り、端部はやや平坦に仕上げる。かえりは丁寧に作られる。身は瓦屋形の 屋門が貼り付けられ、柱は横帯4まで伸びて玉飾りが付く。胴部は蓮華文の貼り付けが施されるが茎の部 分は線彫りで表現される。横帯3および4は突帯で、胴下部文様帯に波状沈線文が1条見られる。安里編年 のⅡ〜Ⅲ式(1770〜1850年代)の資料に相当する。銘書は見られない。
右棚側前列の蔵骨器27(第24図67、68)もマンガン釉甕形で屋門はシルヒラシを向いて検出された。蓋 はつまみが宝珠形で鍔の縁が上方に反り、端部は平坦に仕上げる。身は瓦屋形の屋門が貼り付けられ、柱は 横帯4まで伸びる。玉飾りは見られない。肩部文様帯は無文で、胴部文様帯に貼り付けの蓮華文が施される。
茎部分は線彫りで表現し、その根元部分に貼り付けの蓮華が見られる。横帯3および横帯4は突帯で、胴下 部文様帯は無文。安里編年のⅡ式(1770〜1800年代)の資料と考えられる。銘書は蓋および身とも見られ ない。
同じく右棚側前列の蔵骨器28(第25図71)はボージャー形で身のみの検出で、マド枠はシルヒラシを向 いて検出された。口縁部は玉縁状で内傾し、頸部沈線は2本を数える。胴部は無文で平葺形のマド枠が貼り 付けられる。マド枠の右上にカマ印が見られた。器形から安里分類のⅢa式(1700〜1800)の資料である。
銘書は見られない。
右棚側後列中央の蔵骨器24(第24図69、70)はボージャー形で、マド枠が墓口のある壁を向いており、シ ルヒラシ中央へ向いていない状況で検出された。蓋は饅頭形で蓋裏の中心部は有孔である。つまみ台は見 られず、体部は無文。安里分類のⅢb式(1710〜1740)の資料である。身は玉縁状の口縁部は内傾し、頸部沈 線は2本を数える。唐破風形のマドが貼り付けられる。胴部にはマド枠下方に大きく蓮華文を沈線で描き、 マド枠の左右にも沈線で蓮華文を描く。マド枠の下には「春」という文字が確認できる。また、マド枠右上に カマ印が見られる。安里分類のⅡc式(1680〜1740)の資料である。両者の絞り込みから1710〜1740年の 資料と見られる。銘書が蓋の内外面で見られた。蓋の外面には「未ノ五月廿三日/かま戸比嘉男子/歳拾四 かな」「未ノ五月廿八日/西原■男子/歳■かま戸」。内面には「未ノ五月廿三日/かま戸比嘉男子/歳拾四
/かな」「未ノ五月廿八日/西原筑登之男子/歳七かま戸」と判読できた。両者とも同文が墨書されている。 被葬者はかま戸比嘉の男子「かな」と西原筑登之の男子「かま戸」の二人である。記載された干支・月日が五 日違いで、相次いで死亡した子どもを同じ蔵骨器に納骨したことが分かる。左棚の蔵骨器17と同じく、比 嘉姓と西原姓の二つの姓が確認できる。
奥棚側の壁際でみられた蔵骨器29(第25図74、75)は沖縄産無釉陶器を使用した転用蔵骨器である。蓋 はボージャー形でつまみやつまみ台が見られない笠形で安里分類のⅦ式(1750〜1820)の資料。身は沖縄 産無釉陶器の水甕で、肩部に粘土紐の貼り付けによる縄目が1条巡る。口径32.0㎝、胴径42.3㎝、底径23.6
㎝、器高63.5㎝を測る。粘土紐の上部にカマ印が見られた。蓋と身のどちらにも銘書は見られなかった。 蔵骨器31(第25図72、73)は左棚前方の奥壁側で横たわって検出されたマンガン釉甕形である。蓋はそ の前方の床上で検出されたものをその状況からセットだと判断した。蓋のつまみは宝珠形で鍔はやや歪む が端部とかえり端部は平坦に仕上げている。全体的に丁寧な造りである。銘書は見られない。身は屋門が貼 り付けの瓦屋形で柱貫が付く。玉飾は見られない。肩部文様帯に沈線で波状文が描かれる。胴部文様帯は蓮 華文を貼り付けるが茎の部分は沈線で表現され、柱が横帯4まで伸びる。胴下部文様帯に沈線で波状文が 1条描かれる。安里編年のⅡ〜Ⅲ期(1770〜1850年代)の資料と考えられる。身にも銘書は見られなかっ た。
蔵骨器40(第25図76、77)は奥壁側左隅で検出されたボージャー形である。蓋の上にはマンガン釉甕形 の蓋が重ねられており、マドは壁側を向いていた。蓋はつまみが扁平形で蓋裏の中心部は無孔である。径 10.6㎝のつまみ台が見られ、体部は無文である。安里分類のⅤa式(1740〜1770)の資料である。銘書は見 られない。身は口縁部が内傾し、頸部沈線は2本数える。胴部は無文で平葺形のマド枠が貼り付けられる。 その左上に「し」を反転させたようなカマ印が見られる。銘書は見られない。両者の形式から1740〜1770 年の資料と考えられる。
左棚前方で検出された蔵骨器38(第26図78、79)は赤焼御殿形で、石灰岩の切石の上に安置され、マド枠 はシルヒラシを向いていた。上江洲編年の1690〜1780年の資料で、蓋は寄棟形で屋根が上下二層となる。 大棟に一対の鯱が乗り、正面および背面に獅子頭を2体ずつ貼り付けている。正面に大きな蓮華文を彩色 で表現する。下段の屋根には黒色で瓦を描画する。正面軒にかろうじて垂木の表現が見える。身はマドが唐 破風形の貼り付けで1方2方の3箇所の掘り込みがある。窓の両脇には貼り付けの法師像が見られ、両側 面にも同様に法師像が1体ずつ貼り付けられる。外面はナデ調整が見られるが全体的に粗い。白化粧が施 される。蓋と身のどちらにも銘書は見られなかった。
蔵骨器37(第26図80、81)はマンガン釉甕形で蔵骨器38と同様の切石の上に安置されていたが、屋門は
壁を向いていた。蓋のつまみは宝珠形で鍔は平坦に仕上げ、端部はやや丸い。宝珠台は2段で構成される。 全体的に丁寧な造りである。銘書が内面で見られ反時計回りに「乾隆六拾年己卯七月七日洗骨/粟國筑登 之親雲上」とあり、被葬者は乾隆60年(1795)の七月七日に洗骨した「粟國筑登之親雲上」だと分かる。後述 する蔵骨器41の被葬者と夫婦関係だと考えられる。身は口縁部が緩く外反し、口唇部は中央が浅く窪む。 肩部文様帯は沈線で蓮葉文を施す。屋門は瓦屋形を貼り付けし、柱貫が付く。柱は胴部の中央辺りまでで、 横帯4まで届かない。屋根に玉飾りは見られず、柱下に見られる。胴部文様帯は蓮華文を貼り付け、茎は沈 線で表現する。胴下部文様帯は見られない。安里編年のⅡ式(1770〜1800年代)の資料である。
蔵骨器34(第27図84、85)はマンガン釉甕形で墓室に入ってすぐ右手側に安置されていた蔵骨器である。 屋門はシルヒラシを向く。蓋はつまみが宝珠形で鍔は平坦に仕上げ、端部やかえりの縁も平坦に仕上げる。 全体的に丁寧な造りである。銘書が内面で見られ反時計回りで「馬氏板良敷親雲上室真靏嘉慶元年丙辰七 月朔日死同三年戌午正月二十四日洗骨号慈心翁氏安谷屋親方盛孟女」とあり、板良敷親雲上の室「真靏」で 嘉慶元年(1796)に死去し、嘉慶3年(1798)に洗骨されていることが分かる。真靏は組踊の創始者玉城親 方朝薫の孫娘にあたる。その真靏がなぜ本墓に葬られたのか詳細は分かっていない。身は口縁部が直口し、 口唇部は平坦に仕上げる。屋門は瓦屋形を貼り付けし、柱貫が付く。柱は横帯4まで伸び、玉飾りを3枚貼 り付け花弁形となる。肩部文様帯は無文で、胴部文様帯は貼り付けの蓮華文し、茎部分は沈線で表現する。 蓮華の下に沈線で波文を施す。胴下部文様帯は見られない。安里編年のⅡ式(1770〜1800年代)の資料で ある。
蔵骨器36(第28図86)はボージャー形で蔵骨器35と蔵骨器41の上に乗せるように重なって検出された。 身のみの検出で蓋は出土していない。口縁部は玉縁状で直口し、頸部沈線は3本を数える。胴部は無文で平 葺形のマド枠が貼り付けられる。マド枠の右側にカマ印が見られた。マド枠の幅でマンガン釉が回転施釉 される。器形から安里分類のⅣ式(1720〜1820)の資料で、マンガン釉が施されていることから、マンガン 釉甕形が定型化する1770年代以降が上限となる可能性が考えられる。
蔵骨器41(第28図87、88)はボージャー形でマドはシルヒラシを向いて安置されていた。蓋はつまみ台 やつまみが見られない笠形で安里分類のⅦ式(1750〜1820)の資料である。身は玉縁状の口縁部が内傾し、 頸部沈線が4本見られる。胴部は無文で、平葺形のマド枠が貼り付けられる。安里分類のⅥa式(1770〜 1810)の資料である。両者の絞り込みから1770〜1810年に相当すると考えられる。銘書が蓋及び身で見ら れ、蓋の内面に「乾隆四拾八年/癸卯四月初七日/粟國筑登之親雲上妻/洗骨仕候」とある。身のマド枠下 方には「乾隆四拾八年癸卯/四月初■日粟國筑登之親雲上/妻洗骨仕候」とあり、蓋に墨書された銘書と同 文が身でも確認できる。銘書より被葬者は「粟國筑登之親雲上妻」で、乾隆48年(1783)に洗骨されたことが 分かる。また、被葬者は蔵骨器37の妻であることも判明した。
蔵骨器42(第28図89、90)はボージャー形で蔵骨器41と同様にマドはシルヒラシを向いて安置されてい た。蓋は扁平形のつまみで蓋裏の中心部は無孔、つまみ台は見られない。体部は無文だが、「十」字のカマ印 のような刻み目が1箇所見られた。安里分類のⅤb式(1740〜1770)の資料である。身は玉縁状の口縁部が やや直口し、頸部沈線が2本見られる。胴部は無文で、唐破風形のマド枠が貼り付けられる。マド枠左上方 に「三」のカマ印が見られる。安里分類のⅢc式(1700〜1800)の資料となり、両者の絞り込みから1740〜 1770年の資料と考えられる。銘書が蓋及び身の胴部で見られた。蓋の外面に「かま戸粟國/亥年正月十/ 三日」とあり、身の胴部に「あくに西原仁屋男子/かま戸粟國/亥年正月十三日」と確認できる。身の銘書か ら被葬者はあくに西原仁屋の男子の「かま戸粟國」であることが分かる。蔵骨器19の銘書でもあくに西原
仁屋男子とあったことから、本蔵骨器の「かま戸粟國」と蔵骨器19の「前仲間掟」は兄弟関係であることが 判明した。
シルヒラシは棚では見られなかったマンガン釉甕形が安置されていることが特徴としてあげられる。本 墓から出土したマンガン釉甕形の7点は全てシルヒラシからの出土である。
シルヒラシで最も古い器形は右棚前方で安置されていた蔵骨器24のボージャー形で、1710〜1740年の 資料と想定される。被葬者は「かま戸比嘉男子かな」と「西原筑登之男子かま戸」の二人で、姓を異にして同 じ蔵骨器に納められた状況から比嘉姓と西原姓の深い関係性が指摘される。右棚前方に安置されていた蔵 骨器8点はこの蔵骨器24を除いて銘書は見られなかった。蔵骨器23および蔵骨器27はマンガン釉甕形で 安里編年のⅡ期からⅢ期の資料(1770〜1850年代)の資料である。
左棚前方で検出された最も古いのは蔵骨器42のボージャー形と蔵骨器43のボージャー形で1740〜
1770年の資料と見られる蔵骨器である。蔵骨器42の被葬者は左棚前列の蔵骨器19の被葬者と兄弟関係に あるとみられる。また蔵骨器43は左棚前列の蔵骨器20の被葬者の妻であることが分かる資料である。その 他に蔵骨器37と蔵骨器41の被葬者は夫婦関係であるが、隣接しての安置ではなかった。蔵骨器34、37、41 の資料はともに年号および洗骨の文字、被葬者名が墨書された資料で、乾隆48年(1783)から嘉慶3年
(1798)の年号が確認出来る。蔵骨器33の資料は図化を見送ったが安里編年のⅢ期(1810〜1850年代)に 相当する資料で、本墓から出土した蔵骨器の中で最も新しい器形の蔵骨器である。また、蔵骨器45はボー ジャー形の蓋のみの検出で安里分類のⅦ式(1750〜1820)に相当する資料であるが、蓋外面に「光緒二年 丙■/…」とあり光緒2年(1876)の年号が記されていた。
シルヒラシの使用時期は上述したそれぞれをまとめると1710〜1740年に右棚前から使用し始め、左右 の別はそれぞれの左右棚に安置された者との関係性の深い者を配列し、全体的に1850年代まで使用して いことが窺える。その後、1876年以降に再び墓を開けた時期があったことが分かる。
本墓は蔵骨器の配置状況から、粟國姓の蔵骨器8を中心に17世紀終わり頃から奥棚の使用が始まり、左 右棚には18世紀初め頃からその分家筋とみられる西原姓、比嘉姓が安置される。外間姓も確認されている が、その関係性は不明である(第5章参照)。左棚では親子や兄弟の蔵骨器を近接して安置する状況も窺え た。シルヒラシは18世紀前半から使用が始まり、19世紀半ばまで継続して使用される。一端使用が途絶え るも19世紀後半に再び墓を使用するが、墓所有者からの聞き取りでは近代にハワイへ移民したとあり、20 世紀以降の使用が途絶えたものと推測された。
004号墓からは蔵骨器以外にも副葬品と思われる沖縄産陶器の小杯や瓶、煙管の雁首や吸い口、青銅製 品の簪や指輪、鉄製の小刀らの遺物のほかに木製品に付随すると見られる鉄製釘が出土した。また、紹聖元 寶が1枚、寛永通宝が37枚、無文銭が7枚の計45枚の古銭が蔵骨器の内や墓庭から出土した。
第30図91〜95は沖縄産施釉陶器の小杯である。91〜93は法量の口径が3.4㎝〜3.6㎝、器高が1.9㎝〜
2.0㎝、底径が1.6㎝〜1.8㎝に収まり、どれも透明釉が施され、素地の灰白色が見られる。91および92は貫 入が多く入る。第30図94は法量が口径3.4㎝、器高1.9㎝、底径1.5㎝を測り、内面から外面高台際まで透明 釉で全面施釉される。高台から外底面は露胎で口唇部は釉剥ぎが見られる。外面は飴釉で水玉模様を施す。
素地は灰白色。95は法量が口径4.8㎝、器高2.6㎝、底径2.2㎝を測り、91〜94の小杯よりやや大きい。口縁部 が外反し、内面から外面高台際まで透明釉が施されている。素地は灰白色。93は墓庭Ⅰ層より出土。91およ び95は墓庭北東隅でⅠ層を掘り下げ後のⅡ層上面にて一括で出土。92および94は同じく墓庭北東隅でⅡ 層(黄褐色混礫土)を掘削中に一括で出土した。
第30図96は沖縄産施釉陶器の瓶で墓庭北東隅より出土した。口縁部がラッパ状に開き、頸部で細くなり、
胴部が膨らむ。脚部はハの字状に広がる。内面頸部途中から外面底部、高台内に白化粧と透明釉が施されて いる。外面はコバルトと飴釉で色付けを行い、外面に線刻で圏線、牡丹文、葉文を施す。法量が口径4.8㎝、器 高21.55㎝、底径8.7㎝を測る。97は沖縄産施釉陶器の瓶でいわゆる渡名喜瓶である。内面口縁から外面底 部、高台内に白化粧と飴釉を施すが発色は悪い。胴部二箇所に2条の圏線を巡らしている。素地は橙色。同 じく墓庭北東隅より出土。法量が口径2.9㎝、器高15.65㎝、底径4.7㎝を測る。91や95の小杯と一括で出土 した。
第30図98〜100は沖縄産施釉陶器の煙管で雁首と吸い口である。98は雁首で法量が長さ3.4㎝、火皿径 1.5㎝、ラウ接続部の径が1.5㎝を測る。火皿内面から外面ラウ接合部まで透明釉を施している。外面胴部四 箇所に紡錘形の文様が見られる。素地は灰白色を呈する。99は同じく沖縄産施釉陶器の雁首で法量が長さ 2.9㎝、火皿径1.3㎝、ラウ接続部の径が長径1.3㎝、短径1.2㎝を測る。内面は火皿から外面ラウ接続部まで 瑠璃釉を施釉する。素地は白色を呈する。沖縄産施釉陶器瓶96と一括で出土した。100は沖縄産施釉陶器の 吸い口で法量が長さ2.8㎝、吸口の径が0.5㎝、ラウ接合部の径は長径1.3㎝を測る。外面吸口からラウ接合 部まえ瑠璃釉を施釉する。素地は白色を呈する。98及び100の煙管は小杯92や94と一括で出土した。第30 図101は青銅製の雁首で、長さは法量が残存部で4.5㎝、ラウ接合部の径0.9㎝を測る。火皿を欠損。側面上 部につなぎ目が見られる。上層のサンミデーを掘削中に出土。
第30図102は無文銭で墓口手前で見られた切石前方の墓庭造成土より出土した。無文銭は墓口前より4 枚、シルヒラシから3枚の計7枚出土したが、残存状況の良いものを1点図化した。法量が輪外径1.05㎝、
郭外幅0.65㎝を測る。輪厚0.1㎝と薄い。
第30図103は青銅製の髪差で墓庭より出土した。法量が残存部で長さ8.75㎝、カブが欠損する。断面は首 部が六角形、竿部は方形となり、ムディ部のひねり痕が明瞭に見られる。104は青銅製のジーファーで匙状 を呈し、竿部からほぼ90度曲がる。カブの横断面は緩やかなカーブを描き、背面に陵は見られない。法量が 長さ14.8㎝、厚さ0.4㎝、重量12.5g。奥棚後列の蔵骨器4内から出土した。
第30図105〜110は青銅製の指輪である。105及び106はマンガン釉甕形の蔵骨器44内より出土した。
105は厚み0.1㎝の薄い板状の指輪で法量は直径2.1㎝、幅0.5㎝を測る。重量1.6g。全体的に緑青が付着す る。106も厚さ0.12㎝の薄い板状の指輪である。法量が直径2.2㎝、幅0.5㎝を測る。重量1.3g。装飾と思わ れる丸い突起が見られるが、全体的に緑青が付着するためどのような装飾か不明。107は奥棚後列の蔵骨 器4内から出土した。同蔵骨器からは計4点の青銅製の指輪が検出されたが、その内残存状況の良い1点 を図化した。厚さ0.1㎝の薄い板状の指輪で法量が直径1.8㎝、幅0.4㎝、重量1.6gを測る。緑青は少なく、光 沢が残る。外面上下に圏線を巡らし、その間に縦の沈線を密に施す。つなぎ目が明瞭に残る。108〜110の3 点はシルヒラシで見られたマンガン釉甕形の蔵骨器33内より出土した。108は厚み0.1㎝の薄い板状の指 輪で、法量が直径2.1㎝、幅0.4㎝、重量1.5gを測る。109もほぼ同様の法量で、両者とも緑青が全体的に付 着する。110は厚さ0.1㎝、幅0.1㎝の細い形状をしており、重量も0.5gと軽い。直径2.1㎝を測る。
第30図111は104のジーファーおよび107の指輪が出土した同じ蔵骨器4より出土した。鉄製の小刀と 見られ、刃部の先が欠損する。全体的に錆び膨れが著しい。法量が長さ10.8㎝、幅2.3㎝、厚さ1.1㎝、重量40 gを測る。
第30図112〜114は鉄製釘である。112はシルヒラシから出土した。法量が残存部の長さ3.4㎝、厚さ0.4
㎝、重量1.9gを測る。頭部を一方に折り曲げる。上部に錆の付着が目立つ。113および114はどちらも頭部
を一方に折り曲げる。113の法量は残存部の長さ2.3㎝、厚さ0.25㎝、重量0.7gを測る。先端が欠損する。
114は法量が残存部の長さ2.6㎝、厚さ0.3㎝、重量0.7gを測る。先端部のみ残存する。墓庭北東隅でⅡ層
(黄褐色混礫土)を掘削中に小杯92や94と一括で出土した。
第31図115〜135は墓庭や蔵骨器内より出土した古銭である。115〜118は右棚の右端に安置されてい た蔵骨器13内より検出された。同蔵骨器から7枚の寛永通宝を検出し、その内の残存状況の良好な4点を 図化した。116及び117は一部不明瞭だが、古寛永と思われる。118および119は新寛永と思われる。材質は どちらも銅製である。119は寛永通宝である。背文は見られない。古寛永と思われる。法量は、輪外径2.46㎝、
輪内径1.7〜1.9㎝、郭外幅0.7〜0.9㎝、郭内幅0.57〜0.6㎝、輪厚0.12㎝、重量2.9gである。銅製。奥棚後列 の蔵骨器3内より検出された。
120〜130は奥棚後列右端の蔵骨器4内より検出された。同蔵骨器内より24枚の古銭が検出され、その 内の残存状況の良好な11点を図化した。
120は紹聖元寶である。北宋の渡来銭で初鋳年が1094年となる。篆書体。法量は、輪外径2.4㎝、輪内径1.7
〜1.75㎝、郭外幅0.8㎝、郭内幅0.58〜0.6㎝、輪厚0.12〜0.13㎝、重量3.2gである。銅製。121〜122は古寛 永と思われる。背面は見られない。両者とも銅製。123〜130は新寛永と思われる。127は寛の字の末尾が虎 の尾のように曲がりながら上に跳ねる「虎之尾寛」で平野新田銭と見られる資料である。128〜129は背面 上方に「元」の文字が確認できることから高津新銭と見られる。131は墓口前の石列前方のⅡ層から出土し た寛永通宝である。銭文が不明瞭だが新寛永だと見られる。
132〜135は墓庭北側のピットより出土した埋納された寛永通宝である。ピットは長軸47㎝、短軸31㎝
を測る。4枚重なった状態で出土した。ピットの上部には幅30㎝、奥行25㎝、厚み14㎝の切石が置かれてい た。4枚とも新寛永だと見られる。